「天台宗」という名前の意味

 山に登ろうとする時、私たちはそれぞれの方法で頂上を目指します。ある人はリュックを背負ってふもとからのんびりと歩いて。ある人はスカイラインを自動車で。ケーブルカーやロープウェイを利用する人もいるでしょうし、ヘリコプターで一気に登る人もいるでしょう。飛行機からパラシュートで頂上に降り立つ人もいるかも知れません。

 山の頂上は悟りの世界、そこに登る方法が宗教や宗派の違いです。登山は修行、その方法を選び行ずるのはあなた自身です。

中国の赤城山・天台山遠景
中国の赤城山・天台山遠景

 さて、仏教の各宗派は、その名によっておおよそその個性を知ることができます。真言宗は、仏・菩薩の本誓を示す真実の秘密の文句、すなわち真言を学んで即身成仏を目指す宗派。浄土宗や浄土真宗は阿弥陀如来にすがって極楽浄土への往生を願う宗派。禅宗は座禅等の禅の修行によって悟りの境地を得ようとする宗派。日蓮宗は法華経による日蓮上人の教えによって安らかな世界の実現を目指す宗派などなど。

 では、天台宗の「天台」ってどんな意味?

 地に対する「天」であることは容易に予想ができます。でも、天の「台」ってどういうこと? そこで漢和辞典を開いてみると、「台」にはもともと「臺」と「台」の2字があったと記されています。台地や縁台・台所などの「台」の本字は「臺」なのです。そして、「臺」ではない「台」とは星のこと、上台・中台・下台の三台星(さんたいせい)、三ツ星のことなのです。今は「台」も「臺」もどちらも「台」と書くので混乱してしまいますが、天台の「台」は星の名前、天(そら)に輝く星というちょっとロマンチックな名前を持つ天台宗なのです。

 中国の地図を広げて東シナ海に面した海岸線をたどっていくと、上海の南に「天台山」という山が見つかります。天台宗発祥の地です。天台山で生まれた宗派だから「天台宗」なのです。浙江省(せっこうしょう)台州府(たいしゅうふ)天台県にあるこの山は、仙霞嶺山脈中の一高峰で、海抜1138メートル。天梯山(てんだいさん)・台嶺(たいれい)・台嶽(たいがく)などとも称されています。中国の山というと、桂林にみられるような、あるいは雪舟などの墨絵でおなじみの突こつとした峻嶺のイメージを持つ方が多いかも知れません。でも、この天台山は蓮の花のようなやさしい山容をしています。また、ここ江南地方は、中国でも穏やかな気候と豊かな緑に恵まれた美しいところで、たとえば宮崎駿氏が描くトトロの住む森のある田舎のような、日本人にとってなつかしくホッとできる風景が広がる地方です

 天台山には、古来、仏僧・神仙・道士が多く住んでいました。そして、天帝の居所である紫微星(しびせい)を支える三台星の真下にある山こそが、この天台山であるという伝説がありました。地上で最も神聖な場所だということです。天の紫微星は北極星を中心とした星座、上台・中台・下台の三台星は大熊座の一部と推測されています。また、「天の三台 地の三公」といって、地上には皇帝を補佐する太尉(軍事)・司徒(教育・文化)・司空(人民・土地)の3宰相がいるのと同様に、天空には天帝を補佐する三台があるというのです。つまり、天帝は仏陀あるいは真理・悟りそのものです。そして、三台こそが仏法を守護して、衆生が真理を知り悟りを開くための教え、すなわち天台宗なのです。

 ここでちょっとだけ面倒な文章を読んでください。天台宗の基本規則である『天台宗宗憲』第3章第4条(宗旨)には次のように記されています。
「天台宗は、法華一乗(いちじょう)の教えを根本として、仏性(ぶっしょう)の普遍と尊厳を自信し、自行化他(じぎょうけた)の菩薩道を並べ行い、正法興隆(しょうぼうこうりゅう)、人類救済の聖業に努め、かつ、国家社会の文化開発に尽くし、皆成仏道(かいじょうぶつどう)の実現と仏国土の建設とにあらゆる宗教的努力をいたすことを宗旨とする」
 難しいことは追々解説させていただきますが、要するに、天台宗という宗派は人々が悟りを開き、世界が平和に、美しく、やさしく発展していくための手助けをする宗派だということです。

天台宗の宗章「三諦章」

 最後に天台宗の宗章を紹介しておきましょう。国家(現代的には世界、あるいは宇宙レベルの)をあらわす16菊の中央に3ツ星(三諦章)を配した紋が天台宗の宗章です。


お釈迦様のこと-天台宗の興起を考える前に-

 紀元前5~6世紀頃、インドで生まれたゴータマ・ブッダ、すなわち釈尊が説いた教えが仏教です。仏教はここから出発して、2千年という時を経るに従い、あるいは進歩し衰退し、あるいは分裂・合併・融合を繰り返し、様々に変化して現在に到ります。もちろん、天台宗もその流れの中で脈々と維持され発展してきたわけですが、今回はすべての基本である釈尊についての、意外に思われるかも知れませんが、仏伝のデフォルメを廃せば「なぁーんだ、なるほど」という側面をいくつか列挙してみたいと思います。

  • 釈迦というのは北インドの小部族の名前で、人種は純粋アーリヤ族ではなく、ヴラーティアだと伝えられ、往年釈迦族を蒙古系人種だとした学者もいる。いづれにせよ、ある意味では混血人種であったと考えられる。
  • カースト4姓制度の中では、釈迦族は自ら第2位クシャトリヤを自認していたが、ヒンドゥー教の資料によると、最下位のシュードラーであったと目されている。
  • カピラヴァストゥの王シュッドダーナの子として生まれたシッダルタ(後の釈尊)は王子であったが、当時の国王は部族の有力者の輪番制であったらしく、仮にシッダルタが出家しなかったとしてもカピラヴァストゥ王になれたかどうかはわからない。
  • マーヤ(シッダルタの実母)はルンビニで早産し、産後の肥立ちが悪く、まもなく亡くなった。シッドダーナ王の後妻はマーヤの妹マハプラジャパティーである。マーヤ姉妹は隣国王の子女で、この2つの婚姻は日本でも時折見られる形態であろう。
  • シッダルタは16才でヤショーダラーと結婚し、男子ラーフラをもうける。29才で出家、35才で悟りを開いてブッダとなった後は、85才で入滅するまで各地を遊行し、、無数の人々に説法して歩く。このことは、キリスト教のマリアの処女懐胎や諸々の苦難、種々の奇跡などに比べると極めて平凡であり、私たちとさほどかけ離れたものではない。
苦行時代の釈尊
苦行時代の釈尊

出家した釈尊は相次いで2人の師に学ぶが、その教えを直ちにマスターし、究極の悟りを求めて7年間の前人未踏の苦行に入る。その内容の中心は断食行であったとされるが、苦行は解脱を導き出すものではないとして、7年の修行一切を捨てて菩提樹下で座禅し瞑想する。
 長年の修行の意義を自ら否定した釈尊の前向きな勇気と、悟りへの道を行為から心の思索へ求めた仏教の志向性を私たちは忘れてはならないだろう。

  • 釈尊当時のインドの宗教・文化・社会的制度はバラモン教がすべてで、聖典ヴェーダと司祭者バラモンの権威は絶対であった。その中で、仏教はあくまで新興宗教である。
  • バラモン教は神や神の国へ思考を向け、祭祀を重要視する「神の宗教」「祭りの宗教」であり、人間の幸福を長寿や子孫繁栄など表面的な事象においてのみとらえていた。
     対して仏教は、祭祀を無視して人間の心に思いを致した「人間の宗教」で、自身の心の中を模索することによって永遠の安らぎを得ようとする宗教であった。
  • 釈尊の解脱への瞑想における降魔、すなわち欲望・渇愛・疑惑などからの脱却は、自らの心の内に向けての自省・懺悔・発心のほかに、バラモン教との決別の意味も大いにあった。
  • 釈尊の教説に不特定多数への説法はなく、みな「舎利弗(しゃりほつ)よ」「阿逸多(あいた)よ」「女よ」と個人への呼びかけになっている。人々にとって釈尊は神でも権威者でもなく、良き師であり、頼りになる先輩であった。仏教は対機説法であり、個々人の心を大切にするという意味で個人主義である。したがって、キリスト教などのようにバイブル1冊で事足りるはずもなく、膨大な経典が現代に伝えられているのである。

 

 いかがでしたか? 上の事項には諸説も多く、また、他にいくつも意外と思われる事実もあるのですが、知っておいていただきたいのは、釈尊の仏教は決して特別の権威的な宗教ではないということ、人間の心にスポットを当てた個々人各々のための宗教であったということです。このことが、後に天台宗という宗派の教理の中で遺憾なく発揮されるのです。

「天台宗」の興起と発展

※注※ 天台大師智顗(ちぎ)は、以下の文中では「智ギ」としています。

 インドで釈尊がお悟りになって興っていった仏教は、やがてアジア各地に広がり、その土地土地の様々な宗教と対立、融合しながら発展していきます。
 ある学者は、インド仏教は譬喩・例話を駆使して人のあり方を平易に説いた道徳的新興宗教、中国仏教はそれを哲学的思惟で体系化し、日本仏教は信仰的実践宗教にまだ高めた、と評しました。異論はあるかも知れませんが、大雑把な位置づけにはなるでしょう。
 天台宗が興った当時の中国仏教は、儒教や道教、老荘思想といった古来の宗教と対立しながら、独自の展開を見せますが、その教えの代表的形態は、天台・華厳・禅・念仏の思想であったとも言われています。

 仏教に改良を加え、中国の国土・人民にあった仏教を模索していた南岳慧思禅師(なんがくえしぜんじ)の弟子に智ギという秀才がいました。智ギ禅師は大蘇山(だいそざん)で悟りを開いた後、都である金陵(きんりょう)で法華経の講義等を行って人々の崇敬を集めていましたが、やがて世俗を嫌って天台山に入り、天子の援助を受け、仏隴峰(ぶつろうほう)に修禅寺を開創して自らの唱える仏教の根本道場としました。
 その教えとは、法華経を中心とした釈尊の教えの統一と、法華経の教えに立脚した悟りへの実践で、智ギ禅師独自のこの教理こそが、いわゆる天台教学と言われる中国仏教屈指の思想なのです。
 智ギ禅師は、晋王広(しんのうこう。後の隋 煬帝[ようだい])から特に「智者」の号を賜り、さらに天台山に住したことによって「天台大師」と尊称されるようになりました。また、天台大師の思想が次第に中国全土に浸透し、教団も大きくなってきて、そこに天台宗の名が自然に生まれてきたわけです。

 私ども天台宗の僧侶は、天台宗を開創された智ギ禅師を「高祖」、その教えを日本に伝え、さらに発展させた伝教大師最澄を「宗祖」と尊称させていただいています。  天台大師にはじまる天台宗は、その後6代を経て日本の伝教大師最澄に伝わります。天台大師が亡くなられてから200余年後、中国は唐の時代、日本は平安朝の頃です。

釈尊  摩訶迦葉  阿難尊者  商那和修  鞠多尊者  提多迦  弥遮迦  仏陀難提  仏陀蜜多  脇尊者  富那奢  馬鳴  毘羅比丘  龍樹  恵文  恵思  智ギ  章安  智威  恵威  玄朗  湛然  行満  道邃  最澄   (異論あり)

 

 最澄は、修学中、既に鑑真和上の伝来した断片的な天台の典籍を学んでおり、末法(仏法が廃れ世の中が乱れる時代。1052年がその初年とされ、当時は末法の危機感が流布していた)間近な今こそ、天台の教えが必要であると確信していたのです。

 最澄を心の師と仰ぎ、比叡山寺一乗止観院の落慶法要にも行幸したと伝えられる桓武天皇は、入唐求法を決意した最澄に対し、還学生(げんがくしょう。視察的意味あいの短期留学生)として藤原葛野麻呂大使の遣唐使船に加わることを許可し、十分な留学費を与え、通訳に弟子の義真や従者に丹 福成(たじのふくなり)等が同行することも認めてくれました。さらに、留学費用については、皇太子(後の平城天皇)等、有力者の多大な援助があったことも忘れてなりません。

 とはいえ、技術の未熟な当時の航海は困難をきわめ、難波(大阪)を発った一行は、一度嵐で九州に漂着し、翌年肥前(ながさき)から再び遣唐船に合流して、2カ月近くの航海の末、ようやく中国にたどり着くという有り様でした。しかも、4隻の遣唐船のうち無事に中国に到着したのは、大使や橘 逸勢、空海等の乗った第1船と最澄等の乗った第2船のみだったのです。
 ともあれ、寧波(にんぽう)に上陸した第2船の一行は都 長安に向かいますが、最澄はすぐに天台山を目指します。還学生には時間がありません。